針灸列伝

神農(Shennong)(英語表記)Shén nóng

生誕と生涯

  • 紀元前2737年頃に生まれたとされています。
  • 生誕地については、複数の説があり、具体的な場所は不明です。一部の伝説では、古代中国の首都西安の北東、華山山脈にあるとされる場合もあります。また、現代の扶風県や湖北省の麗山山付近が彼の出生地であるとする説もあります​​。

主な業績と貢献

  • 農業の神として、農耕具の発明、火を使った土地の開墾方法の教示などに貢献しました。
  • 中国の伝統的な医学(TCM)の父として、薬草の分類、脈診、鍼治療、灸などを発展させました。
  • 植物と季節の変化に関する広範な知識を用いて、伝統的な中国暦の開発に貢献しました​​​

神農の伝説的なエピソード

  1. 生誕と特徴: 神農は牛の頭を持つ神格的存在として生まれたとされています。彼は生後3日で話し始め、1週間で歩き、3歳で畑を耕し始めました。彼の牛の頭の姿は、農業と水牛との関連から来ているとされます​​。
  2. 医学への貢献: 神農は医学においても革新をもたらしました。彼は薬草の効果を自らの体で試し、様々な薬草の性質を発見しました。彼は薬草を「上品」「中品」「下品」に分類し、それぞれの薬効を特定しました。彼の透明な胃を通して、薬草が体内でどのように作用するかを観察できたと伝えられています​​。
  3. 農業革新: 神農は農業の神として、農耕具を発明し、火を使って土地を開墾する方法を教えました。彼は、人々が肉、貝、野生の果物から穀物や野菜に基づく食事に移行するのを助けました​​。
  4. 暦の開発: 神農は植物と季節の変化に関する知識を活用して、伝統的な中国暦を作成しました。この暦は、農耕サイクルと天体観測に基づいており、中国の文化や農業に影響を与えました​​。
  5. 死因: 神農は薬草の研究中に有毒な植物を摂取し、その結果腸が破裂して命を落としたとされています。この有毒な植物は黄色い花を持つ雑草で、彼が間に合わせることができなかった解毒茶を飲む前に死亡したと伝えられています​​​​。おそらくケシの葉っぱを食べたんじゃないかと書いてある文献もあります。

神農の神格化と現代への影響

  • 神農はその死後、薬王(Yaowang)として神格化されました。彼は偉大な発明家としてだけでなく、中国人の祖先としても尊敬されています。
  • 今日でも、神農は農業、稲作、伝統中国医学の守護神として崇められています。彼の誕生日は、特に農村部で祝われ、家畜の犠牲や特別な儀式が行われます​​​​。

神農の伝説は、中国の文化、医学、農業の発展に大きな影響を与えたとされ、現代中国でも彼の遺産は大いに尊敬され、称賛されています。彼の教えや発明は、今日の中国社会や文化においても重要な役割を果たしています。

扁鵲(Bian Que)へんじゃく

扁鵲(Bian Que)、本名秦越人(Qin Yueren)、は紀元前5世紀の中国の医師で、中国医学の重要な先駆者として知られています。彼は特に、中国医学の四診法(視診、聴診、問診、脈診)を導入したことで名高く、これらの診断法は現代でも基本として受け継がれています。また、重要な古典医学テキスト「南京」(难经、Classics of Difficult Issues)の著者でもあり、その内容は後に「黄帝内経」(The Yellow Emperor’s Classic of Internal Medicine)に取り入れられました。彼のもう一つの偉業は中国の伝統医学史上初めての医学校、「扁鵲学派」の設立でした。

扁鵲は、その卓越した医療技術により「扁鵲」という伝説的な医師の名を与えられ、彼の伝説は中国文化に深く根付いています。彼の治療法や診断法は、中国医学の歴史において大きな影響を与えました。扁鵲は、貧富に関わらず患者を平等に扱い、その公平さと謙虚さで知られていました。彼はまた、患者の病気を初期段階で見抜き、その進行を正確に予測する能力を持っていたとされています。特に有名なのは、昏睡状態にある患者を誤って死者と判断された場合に、針治療と薬草を用いて患者を救ったという伝説です。

彼のもう一つの伝説的なエピソードは、麻酔を用いた心臓移植手術の話です。この手術では、二人の患者の心臓を交換するという驚異的な手術が行われたとされており、中国医学史上最も画期的な手術の一つと見なされています。

若い頃は宿屋を経営していたとされる扁鵲は、宿泊客の一人から医学の秘密を授けられたという逸話が残っています。彼はこの知識を用いて、自然の秘密を理解し、人体を透視する能力を身につけました。この特殊な能力を生かし、彼は患者の内部の障害や結節を明確に見極めることができたとされています。

扁鵲の死については詳細が明らかではありませんが、専門家間の嫉妬による暗殺説があります。彼は310年頃に亡くなったとされ、その死後も彼の名前は中国で広く知られており、いくつかの中国の成語は彼にちなんでいます。これらには、「起死回生」(死者を蘇らせる)や「讳疾忌医」(病気を隠して医者を避ける)などが含まれています。

扁鵲の業績と伝説は、中国医学の歴史において非常に重要な役割を果たしており、現代の中国文化においても彼の名前と教えは尊重され続けています。

扁鵲に関しては、複数の人物が「扁鵲」という名前を持っていた、あるいは同一人物の異なる伝説が存在するという説があります。これは、扁鵲の物語や業績が数世紀にわたって語り継がれ、その過程で伝説が拡大し、複数の医師が「扁鵲」として同一視されるようになった可能性があるためです。

中国の古文献では、一人の扁鵲が複数の地域を旅し、異なる時代に活躍したと記されている場合があります。これが、複数の医師が「扁鵲」という名前を継承していた、または複数の異なる人物が同一の「扁鵲」として伝えられてきたという解釈につながることがあります。しかし、これらの話が事実であるか、あるいは伝説の中で形成されたものであるかは明確ではありません。

歴史的な記録や文献に基づくと、扁鵲という名前は特定の医師だけでなく、優れた医術を持つ者に与えられる称号のようなものだった可能性もあります。結果として、一人の歴史的人物としての扁鵲と、伝説や物語の中の扁鵲が混在しているのかもしれません。扁鵲にまつわる伝説や物語は、時間とともに拡大し、変化してきた可能性が高いです。

華佗

神医、華佗と三国志

張仲景

張仲景(ちょうちゅうけい、約150年 – 219年)は、中国東漢時代の著名な医師で、漢方医学の大家として知られています。彼の最も重要な業績は、医学書『傷寒雜病論』の著述であり、この書はその後の中国だけでなく日本を含むアジア全域の医学に多大な影響を与えました。

張仲景は若い頃から医学に興味を持ち、自ら学び実践を重ねることで高い評価を受ける医師となりました。彼は特に診断技術に優れており、「望診」と呼ばれる技術で、患者の顔色や外見から病状を読み取ることができました。その診断能力は、ある若者が将来的に起こりうる健康問題を予測し、正確にその通りになったというエピソードで知られています 。

『傷寒雜病論』では、傷寒(現在でいう腸チフスやコレラなどの伝染病)と雑病(慢性疾患)を扱い、270以上の処方が記されています。この中で約25%の処方が今日でも使われており、伝統的中国医学の教育において重要な位置を占めています 。

彼の功績は、医学的な知識だけでなく、その教育的な影響にも及びます。彼の時代、漢方は主に急性疾患の治療に使われていましたが、彼の業績により慢性疾患に対する漢方の使用も広まりました 。

また、日本においても『傷寒雜病論』は特に重視され、江戸時代の元禄時代には、日本独自の漢方医学の発展に寄与しました。その教えは、病気の根本原因を理解し治療することを重んじ、中国本土の教えとは異なる独自の進化を遂げました 。

張仲景はその生涯を通じて、医学の発展に貢献し、後の世に大きな影響を与えたことで「医聖」として尊敬されています。その著作は、医学史における里程標として今もなお価値を持ち続けています。


李時珍 りじちん

李時珍(Li Shizhen、1518年 – 1593年)は、中国明代の著名な医師であり、本草学者です。彼の最も有名な業績は、『本草綱目』の著述で、これは中国本草学の集大成とも言える著作です。彼はまた、「瀕湖脈学」と「奇経八脈考」も著しています。

生い立ちとして、彼は医師の家系に生まれ、幼い頃から父の助手をして医学を学んでいました。本来は科挙に合格して官僚になることを望まれていましたが、彼自身は医学への関心を持ち続け、最終的には医学を専門とする道を選びました。

『本草綱目』の執筆には27年の歳月を費やし、この作業は彼の健康にも影響を及ぼしたとされています。完成したこの著作は、約1,900種類の物質を記述し、それらの多くは他の作品には現れていないものでした。また、約11,000の処方が記載されており、そのうち8,000はあまり知られていなかったものです。この著作には1160枚のイラストが含まれ、文脈を支援しています。

李時珍はまた、鍼灸や予防医学にも深い関心を持っていました。彼は予防医学を重視し、「病気を治すことは、渇いてから井戸を掘るようなもの」と述べ、500以上の健康維持と体力強化の治療法を記録し、そのうち50は彼自身が発明したものでした。

彼の著作は、中国のみならず、日本やヨーロッパ諸国にも大きな影響を与えました。『本草綱目』はラテン語などのヨーロッパ語に翻訳され、世界の博物学や本草学に影響を与えています 。

日本鍼灸の礎となる。杉山和一